深くて暗い底の方から

Facebookを見ていると結構な頻度で、否定的な感情で涙が流れそうになる時がある。何故だろう、と立ち止まって考えてみる。

そういう時は、知り合いが自信満々に、上品とは言えない書き振りで自らの仕事ぶりを誇る投稿を目にした時が多い。目にまぶしく、かつ、嫌悪を感じる。控えめが美徳という時代ではないのは、わかっているつもりだ。しかし素直に賞賛できない。新入社員時代に「俺が俺がというのはやめてくれ」と、仕事は自分一人でできるものではないという信条を持つ人格者だった当時の部長の言葉がその面影と共に思い出される。いや、そんな道徳然とした心情に起因するものではないな。。単純に羨ましいとか妬ましい、くやしいというようなシンプルな感情だ。普段は自分が抑えこんでいて、浮かび上がってこない黒々とした感情なのかもしれない。ただ、それだけでもないような気もする。美意識のようなものも含まれるようにも思える。複雑な感情が交錯しないまぜとなって自分を強くネガティブな思いへと瞬間的に刺激し、揺り動かす。その刺激は、深く暗い底のほうにある自分の生き方の拠り所に触っているような気がしている。自分が長年飯を食ってきた、食わせてもらってきた仕事が裏方の仕事だからだろうか。

SNSは性格を悪くするか?

Facebookをスマホアプリから削除した。たまたま通りがかった書店の書籍のPOPに、「SNSをすると性格が悪くなる云々」と書いてあるのが目に入った。「ああ、そうだ」と思った。思い当たりがあるのだ。スマホアプリは画面ワンタッチであまりにも簡単にアクセスできる。ついつい通勤の電車の中やトイレで便器に座るとスマホを眺めてしまう。

暇に任せてダウンロードしたyahooアプリに目をやれば、トップに上がるニュースはタレントゴシップやくだらないニュースがほとんどだ。こんなものを熱心に眺めていても人生をより良くする参考にはならないと、最近あらためて思う。

横道に逸れてしまった。極論すれば、Facebookは他人のリア充を見て何が楽しいのかということだ。

今の自分が充実してないことの裏返しなのだな。ここまで書いて確信した。昔はそうでもなかった。これは今の俺の大きな課題だ。

他人のリア充記事を見るとき、自分を基準にして考えてしまうのが問題なのだ。羨ましいリア充記事がアップされていると、コイツは俺より給料がいいから、学歴があるから、とか、語学力が堪能だから、身体能力が優れているからとか、自分の現状プラスマイナス他人の能力や出自や環境を掛け合わせて納得できたり、できなかったりするのだ。心に不必要にザワザワとさざ波が立ってしまう。

純粋にリスペクトできる時もあるがそうではないネガティブな思い込みに囚われるときの方が多いような気がしている。そんな時、自分は相当嫌なヤツになっている(まあ、元々嫌な奴かもしれないのだが、、 笑)。

脳内で自問自答しているから「それは言い過ぎだ」とか、「格好悪い」とか「ひがみ根性だ」とか突っ込んでくれる有り難い友人はそこには、いない。やがて思い込みは否定されることなく心の底に自覚なく定着する。ある意味で自分自身が救われない。

今、スマホからアプリを削除し、あまり見なくなると、少し心が安定した。

あれだけ仕事が忙しく過ごしたのに、今、これだけの暇な時間が訪れたのは、何か意味があると前向きにとらえたい。今の自分の大きな課題にあらためて気づき、真正面から取り組み、これからどうしようと考えるチャンスを神様が与えてくれている、そう思うようにしよう。

あ
近隣のお寺の金剛力士像 阿
うん

歩いてみれば

あれだけ忙しくて死ぬかと思ったのに、ここのところは暇だ。忙しかった昨年後半から3月末までが暴風雨と日照りが同時にあるような過酷な状況だと例えるなら今は凪だ。そのギャップに苦しんでいる。我ながら素直にリラックスして遊べない損な性質だと思う。

お金が無いので、最寄りの駅から通勤定期の使用範囲を歩いてみた。自分の住む市からとなりの市に入ると街並みが変わり、樹々の多くなることを実感する。となりなのに通りの雰囲気が自然に変わる。年齢を重ねた樹々が元気に青々と繁っているのは嬉しいし、木陰に身を寄せたくなる。樹々は簡単に伐採して欲しくない。わが街にも緑を増やしてほしいし、自分でも機会があれば働きかけたい。

またしばらく歩くと、車窓から外を眺めていて朧げながら感じていた地形の面白さに気づく。非常にアップダウンが激しい。図書館に寄ってみたがあいにく休館だった。しかし、喫茶は空いていて休館のためか人が少なくゆったりできてかえって良かった。休館日は穴場だと思った。近くに良い公園もある。またこよう。

夕日に照らされる公園の木

鳥と手打ちうどん

西東京市に次男の自転車を借りて乗って行った。2年ほど前まで住んでいた土地。一度自転車で行ってみたかった。約1時間で予想以上にあっさり到着。気がついたら見慣れた田無タワーがすぐ近くにあった。昔住んでいた家の周りをぶらぶらチャリンコをこいで昼近くになり、飯でも喰うかと思ったとき、ひらめいた店があった。

そこは、住んでいた時はなにやら怪しげで敬遠していたうどん屋。うどん屋なのにアヒルや鴨を飼っていて、そのため外観があまり清潔に見えなかった。

でも、実は美味いらしいという噂は耳にしていた。

小さい子供と家族で行くのはためらうが、今日は一人。勇気を出して引き戸をガラガラっと開けて入ると、人の良さそうな旦那が先客と談笑していた。

壁に貼った品札から肉もりうどんを、これまた人の良さそうな、でも細かいオーダーは苦手そうな奥さんに頼んだ。夫婦で切り盛りしているようだ。すると店主が奥で竹が軋むような音をさせたりトントンという音を立てはじめる。

やや、これはもしや、、と思いながら待つと、まさしく手打ちうどんが運ばれてきた。

適度にコシがある平打ち風の麺で喉越しがよい。「なかなかうまい・・・」と思いながらうどんをすするうち、地元らしきお客さんがどんどん入店してくる。年齢層は少なくとも50代以上だ。店の奥さんと会話する内容から、初めての来店ではなく、このお店が愛されている感じが伝わってきた。

店内に置いてある雑誌の中に、漫画雑誌などに混じって一冊だけレース鳩の愛好者向け雑誌があった。ページを開くとなかなかマニアックな情報が並んでいる。

何故、お店の敷地に鳥類を飼っているのかなんとなく察しがついた。

初めての来店だったし、夫婦は忙しそうだったので鳥に関する余計な質問はせずに、僕は食べ終えると、すぐにお金を払いご馳走さまと言って、店を出て自転車に再び跨った。意外な味わいのある店だ。離れてみて近づく距離というものもあるのだ。

カフカ

観劇した。自分としてはなかなか珍しいことだ。お金も時間もかかる。作品は「海辺のカフカ」だ。もう亡くなられた蜷川幸雄演出の芝居を一度は観たかったのである。

原作は読んでいない。

この世とあの世、現代と戦時中、東京と地方を行き来する物語と世界観が蜷川幸雄氏の演出と舞台美術で繊細に表現されていて印象的だった。舞台上の仕掛けによって、舞台上にない別の風景が見えているように思える瞬間がある。他の世界に誘われる魔法をかけられたような、余韻を残す贅沢な時間だった。主演の寺島しのぶの存在感も麗しいものだった。携帯をしっかり切って三時間をある世界観に浸って過ごすということも良かったのだと思う。気になるものがあればまた他の作品も観てみたい。