「トンネルを抜けると、そこは雪国だった」。あまりにも有名な冒頭のフレーズ。国語の教科書でそのフレーズだけは知っていたがついぞ読むことがなかった。最近、何かの雑誌か書籍か忘れたがこの有名なフレーズに続く文章がまた美しいと語っていたのをたまたま目にして、読んでみようと図書館に足を運んだ。果たして読み始めるとかなり昔に書かれていたものなのに、全く読みづらいことはなく、日本語の表し方は非常に美しく、艶やかで映像を観るかのように視覚的に身体に染み渡るのであった。「雪国」の満足度が高かったので続けて、「伊豆の踊り娘」も読んだ。作品全体が奏でるその艶っぽさは「雪国」がより、鮮やかだった。文芸作品を堪能できるきっかけをつくってくれたあの日の雑誌記事あるいは書籍に、感謝している。
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par avion
元柔道の金メダリストで現在はMMA(mixed martial arts:総合格闘技)の石井慧選手の今を伝えるyahooに掲載された記事を読んで、ふたつの点で多少の驚きがあった。
ひとつめは、柔道の金メダリストまで極めた世界一のアスリートがMMA転向10年目の今、「ある程度納得できる技術レベルに到達した」と言い、さらには、凡人が言うならわかる「何事も習熟するには10年かかる」と発言していること。ふたつめは、「今の日本は言いたいことをいえない風土。だからクロアチア国籍をとりクロアチア人になった」と発言していることだ。
今の日本全体を覆っている窮屈さが一人のアスリートの言葉から滲み出ているというのが新鮮に思えた。自国から離れて見ることで、より明快に浮かび上がるものごとの真の姿というものなのかもしれない。
飾り気ない彼の人格と大陸的なスケールの大きさも伝わってくる良い記事だと思った。
SNSは性格を悪くするか?
Facebookをスマホアプリから削除した。たまたま通りがかった書店の書籍のPOPに、「SNSをすると性格が悪くなる云々」と書いてあるのが目に入った。「ああ、そうだ」と思った。思い当たりがあるのだ。スマホアプリは画面ワンタッチであまりにも簡単にアクセスできる。ついつい通勤の電車の中やトイレで便器に座るとスマホを眺めてしまう。
暇に任せてダウンロードしたyahooアプリに目をやれば、トップに上がるニュースはタレントゴシップやくだらないニュースがほとんどだ。こんなものを熱心に眺めていても人生をより良くする参考にはならないと、最近あらためて思う。
横道に逸れてしまった。極論すれば、Facebookは他人のリア充を見て何が楽しいのかということだ。
今の自分が充実してないことの裏返しなのだな。ここまで書いて確信した。昔はそうでもなかった。これは今の俺の大きな課題だ。
他人のリア充記事を見るとき、自分を基準にして考えてしまうのが問題なのだ。羨ましいリア充記事がアップされていると、コイツは俺より給料がいいから、学歴があるから、とか、語学力が堪能だから、身体能力が優れているからとか、自分の現状プラスマイナス他人の能力や出自や環境を掛け合わせて納得できたり、できなかったりするのだ。心に不必要にザワザワとさざ波が立ってしまう。
純粋にリスペクトできる時もあるがそうではないネガティブな思い込みに囚われるときの方が多いような気がしている。そんな時、自分は相当嫌なヤツになっている(まあ、元々嫌な奴かもしれないのだが、、 笑)。
脳内で自問自答しているから「それは言い過ぎだ」とか、「格好悪い」とか「ひがみ根性だ」とか突っ込んでくれる有り難い友人はそこには、いない。やがて思い込みは否定されることなく心の底に自覚なく定着する。ある意味で自分自身が救われない。
今、スマホからアプリを削除し、あまり見なくなると、少し心が安定した。
あれだけ仕事が忙しく過ごしたのに、今、これだけの暇な時間が訪れたのは、何か意味があると前向きにとらえたい。今の自分の大きな課題にあらためて気づき、真正面から取り組み、これからどうしようと考えるチャンスを神様が与えてくれている、そう思うようにしよう。
カフカ
観劇した。自分としてはなかなか珍しいことだ。お金も時間もかかる。作品は「海辺のカフカ」だ。もう亡くなられた蜷川幸雄演出の芝居を一度は観たかったのである。
原作は読んでいない。
この世とあの世、現代と戦時中、東京と地方を行き来する物語と世界観が蜷川幸雄氏の演出と舞台美術で繊細に表現されていて印象的だった。舞台上の仕掛けによって、舞台上にない別の風景が見えているように思える瞬間がある。他の世界に誘われる魔法をかけられたような、余韻を残す贅沢な時間だった。主演の寺島しのぶの存在感も麗しいものだった。携帯をしっかり切って三時間をある世界観に浸って過ごすということも良かったのだと思う。気になるものがあればまた他の作品も観てみたい。